3年半お世話になったシンガポールを離れる
怒涛の日々だった。SQでサクッと戻り、とにかく家にあるモノを捨てまくり、掃除をしまくり、電気・水道の手続き、携帯の手続き、銀行の手続き、家の手続き、、、そして友人らとのシンプルなお別れパーティー。それを終えて初めてようやく荷物のパッキング。6日間しかいなかったけど、ドタバタな6日間だった。最後は剣道の友人らがパッキングからチャンギ空港まで送迎までしてくれて、かなり助かったし、ずっと友人だろうなーと思った瞬間だった。
また仙台の時のように色々とこの3年半を思い出したいと思う。
シンガポールのはじめはトンデモだった。ChinaTownにある安い宿に家が決まるまで滞在していたけど、超絶ボロく、また売春婦たちの待機場所で深夜はヤンヤンうるさく、30万円だけ片手に来ちゃったもんだけど色々とお金がかかってキャッシュが殆ど無くなり、ホーカーのお粥で飢えをしのぐっていう、日本にいた頃は想像できないような始まりだった。そこから3か月の間、マーケットを理解するために汗だっくだくになりながら200社くらいの人と会話をしながら自分を立ち上げていった。この時の泥まみれな経験は当時は凄く苦しくて、寝ている時に叫んじゃうくらいまで追い詰められたけど、今となってはかなり良い経験だったなぁと思う。
多国籍チームでクロスボーダーなプロジェクトにも色々と携わった。日本人同士の”阿吽の呼吸”や”日本人としての常識”なんてなく、考えなければならないベースが0からなので、色々と苦労した事もあった。ただ、特に自分がリードしなければならない時や相手にお願いしなければならない時、ロジックで伝える事も大事だったけど、”君が必要なんだ”という熱意を伝える事の方がもっと大事だった気がする。あと自分が経験した限りではギブアンドテイク。おっきな意思決定よか細々した意思決定の時は色々と細かい事お願いした代わりに、次回はXX的な。特にシンガポール人は多かったなあと思うし、この辺上手な人はやっぱり社内外リレーションがうまくいっていた。話は戻って、人を動かす事の出来る人は、どこの国で働いても動かせられるんだと思う。それがバズワードな”グローバル人材”の能力なんじゃないかな。
グローバル人材の自分の中の定義は”どこでもメシが食える人”だと思う。自分自身は3年半シンガポールにいても、たまたま物理的に小国に体が置いてある限りで、全くもってグローバル人材ではないなと。なので、パーソナリティーはさておき、パスポートも持ってないような英語のみしか話せないアメリカ人よか、英語・マンダリンのバイリンガルでトンデモ環境でも生き延びれる中国人の方がずっとグローバル人材かなと思う。メシを食えるよう交渉のためにコミュニケーションが必要になり、その際に英語やマンダリンの必要性が出てくるけれど、この2言語できるだけでも、入ってくる情報から思考、またメシが食えるようになる可能性まで、全然違うだろうなー。
剣道をシンガポールで再開したのは大きかった。14歳ぶりに始めたので体がかなりキツかったけど、それでも体は覚えていてくれて、4段・5段の人たちと稽古しても遜色なくできるようになってきた。一番大きかったのは剣道友達。ブラジル人=サッカーうまいと同様、日本人の剣士=剣道うまいな式が成立していた背景もあるけど、海外の剣士は高い防具を調達できたり、大会や昇段のために海外出れるくらいの経済的な余裕がある人が多いので、高いレベルの教育を受けている人が多く、経営者やマネージメント層の人がたくさんいた。そのためビジネスの話とかマインドセットとか、剣道というより稽古の後に食事して色々話して仲良くなった人が結構いた。ベトナム、タイ、マレーシアにも出稽古に行ったり。。。シンガポールから離れても久しぶりに日本で稽古したり、老後もずっと仲良くしていく気がする。
健康を気遣うようになった。シンガポールの人たちの給与水準が非常に高く、それなりに余裕があるからこそだと思うけど、オーガニック関連は欧米系の人たちの需要もあり揃ってはいて、自分自身でもボンビーながら健康のために結構シンガポール中を調べた気がする。生活習慣病は字のごとく普段の生活習慣が由来するもので、特に食べる習慣というか体の中に入れるものが大きいかなと思い、添加物を気にしたり、輸入国や製造元を気にしたり、色々と気にかけるようになった。(お菓子やカップラーメンは全く食べなくなった)そうすると体に摂取せずとも接するものも気になり始めて、シャンプーや石鹸も選んだりと肌につけるものも気にかけるようになったり。食事と肌ケアはかなり女子になったと思う。。。
日本の良い所と悪い所を色々と垣間見る事ができた。仕事でも生活でも見る事ができたけど、世界経済的に見ると悲観的な状況だと思う。完全に取り残されている。一例で、今回転職を考えた時にスタートアップを中心にアプライしたけども、時価総額1B(USD)以上でユニコーン企業と呼ばれる企業をリストアップしてフィルターをかけて企業を選ぶ時に苦労した。なぜならみんな日本にオフィスが無いから。まだオフィスつくっていないからか、もうつくるつもりがないのか、分からないけど200社中で欧米企業に絞って且つITで絞って(ほぼITなんだけど)良さそうなロールを見てみると、たった9社しかなかった。昨今のトレンドなのか、メルボルンにAPACオフィスを立ち上げて、次にシンガポール、そしてインド・中国を攻めていく、そんな拡大の仕方を調べながら感じた。つまりは、グーグルが一発目の国外拠点を東京につくったような時代は終わっていて、日本の優先順位は大して高くないということ。経済停滞の国以上に、インド・中国・ASEANの成長マーケットの方がずっと魅力的なので。これから先、自分自身のジョブオポチュニティももっと少なっていくかもしれない。。。
英語はかなり苦労した。というか今でも苦労しているし、死ぬまで終わりはないと思う。自分の家庭は裕福ではなかったので、留学なんてできる家庭環境ではなかったし、そもそも留学なんてアイデアすらなかった。そんなヌクヌク日本で育って、全く日本国外となんて触れないまま大学・大学院を卒業し(パスポートは23歳で取得(笑))、
友人らの影響を受けて海外にも出るようになり、しまいにはシンガポールに住んじゃってしまい。ただ英語なんてとても流暢に話せるレベルではなかったので、プロジェクトはどんどん英語圏メンバーを巻き込んだり、剣道の後にみんなでご飯に行ったり、BritishCouncil通ってみたり、YouTubeで英語圏の番組見たり、ごくごく普通の事を積み重ねてようやく少し話せるようになった。それでも”こいつあんま英語話せないな”な感じを打ち合わせ中に感じられたり、大事なタイミングでうまい言葉を選べなかったり、”くっそー”と悔しい場面なんて毎日あったと思う。そういう時に悶々とすると原点に戻ってしまうけど、”何のためにどんな覚悟でシンガポールに来たのか”ここに戻ってしまうと立ち上がる以外選択肢が無かった。
Raffles PlaceやBoat Quayからほど近いNorth Bridge Roadを悶々としている仕事上がりは泣きながらトボトボ歩いていたのを思い出す。これが本当に残酷で、ベイ側を見ると綺麗なマリーナベイサンズがあり、脇にはたくさんの企業が集中しているビル群がテカテカ光り、周りは観光客の笑い声や楽しそうな声。最高にポジティブな空間に自分一人悶々という構図が残酷でかなり辛かった。逆に仕事がうまくいっている時は、”この空間の一員に自分もいちゃってるのか!”とポジティブになれる場所なんだけど、正に成功すれば賞賛され、失敗すればどん底に落ちる、そんな世界を描いているような場所だった。でもアナザースカイに出演する機会があるのなら(無いか!)、自分ならあの場所をまた訪れると思う。
シンガポールにいる事で、日本にいたら経験できた事はできなかったけど、それでもシンガポールだからこそ経験できる事、またこの2014年から2017年だからこそ経験できたタイミングも相まって、素晴らしいシンガポール生活だったと思う。次シンガポールに訪れる時は、久しぶりに友人らと稽古をして、大好きなAwesome Coffeeでみんなでラザニアを食べ、East Coastでチャリでブラブラしながらボーッとしたい。仙台を離れる時と一緒、タイミングがあったら6時間フライトなんだし、すぐみんなと会えるべ。